8月31日に引き続き、戦争の話を、もう一つ。
加西市の鶉野(うずらの)に、旧海軍航空隊の飛行練習場が、その形をいまだ、現在に伝えている。県立フラワーセンターのすぐ近くだ。
写真①は、旭日旗が揚げられている、平和祈念碑の全景。写真②は、神風特別攻撃隊白鷺隊の顕彰の碑である。写真③は、当時の飛行演習場の規模を示す表示板であるが、これを見ると、当時のこの施設の巨大さが窺える。
表示板には、飛行場だけではなく、川西航空機の飛行機組み立て工場もここにあったことが描かれている。川西航空機と云えば、戦闘機『紫電』と、その改良型である『紫電改』を製作し、それらの戦闘機の優れた性能は、アメリカ軍からも怖れられた。設計は、姫路出身の、菊原静男だ。彼は後に、国産プロペラ旅客機、YS-11の開発にも携わることになる。
『紫電改』というと、ちばてつや作の『紫電改のタカ』というコミックが思い出される。これも昭和38年から40年まで、『週刊少年マガジン』への連載で、8月31日に紹介した『最前線』と同じく、勇壮に戦う場面と、戦争の悲惨さの二面性を描く名作だと思っている。最終回は、主人公らの所属する航空隊に特攻命令が下るのだが、出撃する前夜、主人公は、憑かれたように、仲間にこう語る。
「俺は、この戦争が終わったら、学校の先生になろうと思う。そして、平和な世の中が続いていくように、子どもたちに教えていくんだ…。」
明日、面会に訪れる予定の母親たちにも、何も告げず出撃し、二度と帰って来られないはずなのに…。
昭和40年にもなると、高度経済成長、東京オリンピックの成功、大阪万博の誘致等が、国の政策として次々に繰り出され『戦争は二度と繰り返さない』、そのためには『平和教育が大切だ』、という今ではごく当たり前のことが、大声でいえる時代になっていたのだ。
当時の遺物として今に残るのが、写真④の、飛行機の修理・組み立て台だ。この組み立て台がいかにしてここに残っているのかは、写真⑤の解説板に詳しく書かれている。
写真⑥は、今に残る滑走路だ。
ここは、訓練の為に若者たちが、日夜発着を繰り返した跡だ。
この鶉野の空を…、若者たちはどんな思いで飛んだのだろうか。
私の今は亡き父は、17歳の終戦時、舞鶴の予科練にいた。その当時の事は、あまり語ろうとはしなかったが、いずれ特攻に出撃することを承知の上で、入隊したという。
「死にに行くことが分かっていながら、舞鶴に行ったんか?」
「学校でな、天皇陛下や国の為に死ぬのがお前たちの役目や、と教えられたんや」
二度と帰らぬ遠い日の、父親と息子の会話だ。
加西市の鶉野(うずらの)に、旧海軍航空隊の飛行練習場が、その形をいまだ、現在に伝えている。県立フラワーセンターのすぐ近くだ。
写真①は、旭日旗が揚げられている、平和祈念碑の全景。写真②は、神風特別攻撃隊白鷺隊の顕彰の碑である。写真③は、当時の飛行演習場の規模を示す表示板であるが、これを見ると、当時のこの施設の巨大さが窺える。
表示板には、飛行場だけではなく、川西航空機の飛行機組み立て工場もここにあったことが描かれている。川西航空機と云えば、戦闘機『紫電』と、その改良型である『紫電改』を製作し、それらの戦闘機の優れた性能は、アメリカ軍からも怖れられた。設計は、姫路出身の、菊原静男だ。彼は後に、国産プロペラ旅客機、YS-11の開発にも携わることになる。
『紫電改』というと、ちばてつや作の『紫電改のタカ』というコミックが思い出される。これも昭和38年から40年まで、『週刊少年マガジン』への連載で、8月31日に紹介した『最前線』と同じく、勇壮に戦う場面と、戦争の悲惨さの二面性を描く名作だと思っている。最終回は、主人公らの所属する航空隊に特攻命令が下るのだが、出撃する前夜、主人公は、憑かれたように、仲間にこう語る。
「俺は、この戦争が終わったら、学校の先生になろうと思う。そして、平和な世の中が続いていくように、子どもたちに教えていくんだ…。」
明日、面会に訪れる予定の母親たちにも、何も告げず出撃し、二度と帰って来られないはずなのに…。
昭和40年にもなると、高度経済成長、東京オリンピックの成功、大阪万博の誘致等が、国の政策として次々に繰り出され『戦争は二度と繰り返さない』、そのためには『平和教育が大切だ』、という今ではごく当たり前のことが、大声でいえる時代になっていたのだ。
当時の遺物として今に残るのが、写真④の、飛行機の修理・組み立て台だ。この組み立て台がいかにしてここに残っているのかは、写真⑤の解説板に詳しく書かれている。
写真⑥は、今に残る滑走路だ。
ここは、訓練の為に若者たちが、日夜発着を繰り返した跡だ。
この鶉野の空を…、若者たちはどんな思いで飛んだのだろうか。
私の今は亡き父は、17歳の終戦時、舞鶴の予科練にいた。その当時の事は、あまり語ろうとはしなかったが、いずれ特攻に出撃することを承知の上で、入隊したという。
「死にに行くことが分かっていながら、舞鶴に行ったんか?」
「学校でな、天皇陛下や国の為に死ぬのがお前たちの役目や、と教えられたんや」
二度と帰らぬ遠い日の、父親と息子の会話だ。
寺岡