3回生が3年生になった昭和52年には、技術室棟が完成しています。まだ、南校舎は出来ていません。この年から5月に行くことになった修学旅行は、信州方面へ行きました。
なお、我が校に保存されている卒業アルバムは、この3回生の分からしかないのです。扉の写真のみカラー印刷で、勿論、後はモノクロームです。オールカラーの卒業アルバムは、6回生を待たなければなりません。1・2回生のアルバムは欠損しています。1回生は、それぞれの元の学校のアルバムを手にされていた可能性はあります。卒業アルバムを作らなかったので、学校の歴史として、手製の写真帳が整備され、学校に残されたのでしょうか。2回生についても、よくわかりません。また、情報があればお知らせ願えればありがたいです。
3回生の“碑”は、当時“校訓碑”と呼ばれていたようです。創立10周年の記念誌には、その名で記されています。
この“碑文”に書かれている言葉、『強く』『すなお』『思慮深く』は、我が校、初代校長の小山良三先生が、開校当時から口にされ、こんな人間に育って欲しいという指針を示されたものであったと、当時に書かれた文献が教えてくれます。小山先生は、昨年末に、齢、九十余をもって他界されたと聞きます。私が最初に勤めた学校で(高丘中ではありません)校長をされていたのが、定年を迎えられる年の小山先生でした。感慨深いものがあります。
3回生は昭和53年3月の卒業時、男子44名・女子27名の計71名で、この学年が1年生として入学してきた時の人数16名と比べて、4倍以上の人数になっています。高丘への転居のためであろうと思われる、途中編入生が如何に多かったかが分かっていただけると思います。
この、校門を入ってすぐ右手に見える“碑”に刻まれた言葉には、今も定期的に白のペンキを入れて、生徒や職員だけでなく、来校された方々皆にはっきりと分かるようにしています。
この、三つの言葉に込められた、永遠の課題ともいえる人間像を、これからも目指せる学校であり続けたいと願っています。
寺岡
なお、我が校に保存されている卒業アルバムは、この3回生の分からしかないのです。扉の写真のみカラー印刷で、勿論、後はモノクロームです。オールカラーの卒業アルバムは、6回生を待たなければなりません。1・2回生のアルバムは欠損しています。1回生は、それぞれの元の学校のアルバムを手にされていた可能性はあります。卒業アルバムを作らなかったので、学校の歴史として、手製の写真帳が整備され、学校に残されたのでしょうか。2回生についても、よくわかりません。また、情報があればお知らせ願えればありがたいです。
3回生の“碑”は、当時“校訓碑”と呼ばれていたようです。創立10周年の記念誌には、その名で記されています。
この“碑文”に書かれている言葉、『強く』『すなお』『思慮深く』は、我が校、初代校長の小山良三先生が、開校当時から口にされ、こんな人間に育って欲しいという指針を示されたものであったと、当時に書かれた文献が教えてくれます。小山先生は、昨年末に、齢、九十余をもって他界されたと聞きます。私が最初に勤めた学校で(高丘中ではありません)校長をされていたのが、定年を迎えられる年の小山先生でした。感慨深いものがあります。
3回生は昭和53年3月の卒業時、男子44名・女子27名の計71名で、この学年が1年生として入学してきた時の人数16名と比べて、4倍以上の人数になっています。高丘への転居のためであろうと思われる、途中編入生が如何に多かったかが分かっていただけると思います。
この、校門を入ってすぐ右手に見える“碑”に刻まれた言葉には、今も定期的に白のペンキを入れて、生徒や職員だけでなく、来校された方々皆にはっきりと分かるようにしています。
この、三つの言葉に込められた、永遠の課題ともいえる人間像を、これからも目指せる学校であり続けたいと願っています。
寺岡